音楽教室 salley gardens

                     
とびらのむこうは ゆめのじかん。。。

2歳のお子様から86歳の方まで、30年のレッスン経験の中で、いろいろな生徒さんにお会いしました。みなさん、それぞれに自分らしい進路、生き方を見つけ、しっかりと歩いていらっしゃいます。大好きなことを職業に!一生勉強できることを見つけよう!その応援をさせていただけたらと思います。
連絡先 ray_tateishi@yahoo.co.jp(立石)



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小澤征爾先生 私の履歴書17,18,19,20 日経新聞



(私の履歴書)小澤征爾(17)演奏拒否 N響と決裂 日本に別れ 無人の会場に独り、悔し泣き
 僕をN響の指揮者に起用したのはNHKのプロデューサー、細野達也さんだったと思う。N響の放送録音の仕事を一緒にしたこともあった。細野さんが推薦しなければ、バーンスタインの副指揮者をしただけの僕をN響の幹部が指名するはずがない。
 契約は1962年6月から半年間。7月にはメシアン作曲の「トゥランガリラ交響曲」を日本初演した。メシアン自身も立ち会って練習はみっちりした。初演は成功したと言っていいだろう。
 10月になって僕らは東南アジアへ2週間の演奏旅行に出かけた。フィリピンでベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を演奏した時。現地のピアニストが弾くカデンツァの途中で、僕はうっかり指揮棒を上げてしまった。オーケストラが楽器を構えた。だがカデンツァはまだ続いている。僕のミスだった。終演後、先輩の楽員さんに「おまえやめてくれよ、みっともないから」とクソミソに言われて「申し訳ありません」と平謝りするしかなかった。
 僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。
 ニューヨーク・フィルの偉い人が日本に来て、赤坂のナイトクラブに呼ばれたことがあった。音楽会の前日だった。だが、お世話になった人の誘いを断るのも気が引ける。行ったらN響の人たちにバレて気まずい思いをした。
 そんなことが積もりに積もって、練習もうまくいかないほど険悪な雰囲気になっていた。「N響の幹部がしゃぶしゃぶ屋で話し合っているようだ」。細野さんからそう聞いて、嫌な予感がした。
 11月の定期演奏会が終わった夜、N響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には、一切協力しない」と表明する。それが新聞に報じられ、僕はマスコミに追われるようになった。世間の顰蹙(ひんしゅく)を買い、電車に乗っていても変な目で見られた。
 事態を収拾するため、細野さんに「病気になったことにして、12月の定期演奏会はキャンセルすればいい」と言われた。でも嘘をつくのもおかしな話だ。僕は今後の演奏を保証してもらうための覚書をNHKの会長宛に送ったが、受け入れられず、12月の定期は中止と伝えられた。だが演奏会当日、僕は弟のポンの車に乗って会場の東京文化会館へ向かった。楽屋口は記者で騒然としていたが、舞台にも客席にも人はいなかった。
 この騒動で、精神的にめちゃくちゃにやられた。泣いたし、悔しかった。年が明けた1月15日、僕を応援してくれる人たちが日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聴く会」を開いた。発起人は今でも信じられない面々だ。浅利慶太さん、石原慎太郎さん、一柳慧さん、井上靖さん、大江健三郎さん、武満徹さん、團伊玖磨さん、中島健蔵さん、黛敏郎さん、三島由紀夫さんたち。音楽に関係のない人も大勢いた。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。ヨーロッパ行きでお世話になった水野成夫さんが作ったオケだ。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない。
 この後僕は再びアメリカへ旅立った。吉田秀和先生たちの仲介でN響とは和解が成立したが、もう日本に戻るつもりはなかった。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(18)ラヴィニア音楽祭 突然の代役務め監督に 団員の「祝福」、批評吹き飛ばす
 N響とのトラブルの後、ニューヨークに戻った僕は契約したばかりのマネージャー、ロナルド・ウィルフォードにきっぱり言った。「オレ、もう日本になんか帰らないよ」。けれどアメリカにいたって仕事はない。ただ時間が過ぎるばかりだった。
 半年ほどたった1963年7月のある日、ウィルフォードから「すぐ来い」と電話がかかってきた。カーネギーホールの前にある事務所に行くと、シカゴのラヴィニア音楽祭の会長、アール・ラドキンがいた。音楽祭でシカゴ交響楽団を振る予定だったジョルジュ・プレートルが肩を痛めたので、代わりに指揮をしろという。本番は数日後だ。
 「ほかに誰もいないから、しょうがない」。英語はよく分からなかったが、ラドキンがそう話しているのは理解できた。プレートルの降板が決まり、困ったラドキンはウィルフォードに代役の手配を頼んだらしい。ところが推薦されたのはオザワという無名の日本人。「日本人なんてやめてくれ」と何度も断ったが、ウィルフォードは引き下がらない。それで仕方なく承知した、そんな様子だった。
 事情は何であれ、とにかく時間がない。2日後にはシカゴで練習が始まるのだ。曲目はグリーグのピアノ協奏曲、ドヴォルザークの「新世界より」、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲など。だけど楽譜がない。レニー(レナード)・バーンスタインのスタジオに駆け込んだ。不在のレニーに代わって秘書のヘレンに鍵を開けてもらい、楽譜棚から借りてしゃかりきになって勉強した。
 ラヴィニアで何とか無事に2回の音楽会を終えた後、盛大なパーティーが開かれた。ラドキンが笑顔で何やら話しかけてくる。「君にこの音楽祭をあげよう」。そう言ったらしい。が、英語が聞き取れないのでよく確かめずにいた。
 その後、オランダの音楽祭で指揮している時(レニーがくれた仕事だ)、ウィルフォードから電話がかかってきた。「何をしてるんだ? ラドキンが君をラヴィニアの音楽監督にすると言ったらしいじゃないか。記者発表があるから、すぐ戻って来い」。パーティーでそう言われていたのに、分かっていなかったのだ。情けない。
 ともあれ僕は翌64年6月、ラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任した。最初の年は指揮するたび、地元の有力紙「シカゴ・トリビューン」が僕のことを徹底的にやっつけた。
 「ラドキンはどうしてこんなのを雇ったのか」「シカゴ響のような偉大なオーケストラがなぜこんな指揮者の下で演奏しなければならないのか」。中には人種差別めいた批評もあって、頭に来た。
 その夏の最後の音楽会。演奏が終わり、舞台袖に下がった後、客席からの拍手で呼び戻された。舞台に出ていくと、トロンボーンも、ティンパニも、トランペットも、弦楽器もてんでばらばら、めちゃくちゃな音を鳴らし始める。何が何だか分からない。「シャワー」といって、僕への祝福だった。
 「シカゴ・トリビューン」への抗議を込めたものらしい、と後で分かった。オーケストラが精いっぱい僕に味方してくれたのだ。「シャワー」を経験したのは生涯で後にも先にもこの1度きりだ。その年から69年まで、僕は毎夏ラヴィニアで指揮することになる。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(19)トロント響 曲目や人事…多くを学ぶ 父を招待、頼み事に面食らう
 1965年9月、トロント交響楽団の音楽監督に就任した。僕がラヴィニア音楽祭で指揮するのを聴いたトロント響のマネージャー、ウォルター・ハンバーガーが僕のマネージャー、ロナルド・ウィルフォードに打診したのだ。
 だが障害があった。どうやらレニー(レナード)・バーンスタインが反対しているらしい。「一緒に説得しよう」と言うウィルフォードと一緒にレニーの家へ行くと、やはりいい顔はしていない。
 「セイジはニューヨークに居て、良いオーケストラだけ指揮するべきだ」という。その頃のトロント響は今ほど有名じゃなかった。「いや、今の僕にはレパートリーを作ることが必要なんだ」。僕には全然レパートリーが足りない。マーラーの交響曲全曲演奏もやってみたい。必死で頼んで、渋々OKしてもらえた。
 トロント響での経験は思った以上に役立った。音楽監督はただ指揮するだけじゃなくて曲や客演指揮者の選定、人事までやる。楽員を辞めさせることだってある。オーケストラがどういうものだか分かって、すごく勉強になった。
 しばらくして、おやじとおふくろをトロントに招待したら、出発前におやじがとんでもないことを言い出した。「ベトナム戦争はやめさせねばならん。二度と東洋人同士を戦わせてはいかん。アメリカにも行って、一番話が通じそうなロバート・ケネディに俺の意見を伝えたい」。相手は元アメリカ大統領、故ジョン・F・ケネディの弟で上院議員だ。会おうにもツテがない。
 結局、僕の友人の浅利慶太さんが中曽根康弘さんを紹介してくれた。目黒の雅叙園で中曽根さん、浅利さん、僕とおやじで会い、中曽根さんに紹介状を書いてもらった。
 ケネディとワシントンで会う前の夜。僕たちが泊まっているホテルに先方の通訳の男性が来た。日本語がペラペラで、サンフランシスコ講和会議でも公式通訳を務めたという。その夜はホテルで酒を飲みながら、2時間ほどかけておやじの意見を聞いてくれた。おかげで実際にロバート・ケネディに会った時にはすんなり話が運んだ。
 おやじの主張は「日中戦争の経緯に照らしても、民衆を敵にしてしまったこの戦争は勝てない。アメリカは武力で勝とうとするのではなくて、発電や土木の技術とか、文明の面で優れているところを共産主義国に見せるべきだ」というものだった。15分か20分の約束だったのをケネディが倍くらいに延ばして、じっくり話を聞いてくれたのでおやじは大喜びだった。
 トロントでの仕事はまずまずだったが、私生活は立ちゆかなくなっていた。結婚した江戸京子ちゃんはピアニスト。どちらかが音楽の勉強をしている時、もう一方は勉強に集中できない。「音楽家同士の結婚は難しい」と誰かに言われたことがあった。確かにその通りだった。海外に居る間はいつも別居。結婚当初からうまくいかなかった。
 最後にはうちのおやじと京子ちゃんのおやじの江戸英雄さん、仲人の井上靖さんの話し合いになった。そこに僕が呼び出されて、最終的に離婚が決まる。でも離婚後も江戸英雄さんは僕のことを「息子だ」と言って、亡くなるまでかわいがってくれ、京子ちゃんとも後に良い友人に戻れた。
(指揮者)


小澤征爾(20)武満さんの傑作 西洋・日本の融合に歓声 初演の指揮、興奮収まらず
 武満徹さんの曲「蝕(エクリプス)」を1966年、日生劇場で初めて聴いた時は寒気がするほど感動した。琵琶と尺八が語り合い、叫び合う。日本の「間」や東洋の静けさがあった。その後、アメリカに戻った僕はレニー(レナード)・バーンスタインにいかにそれが素晴らしかったかを説いた。
 レニーはその頃ニューヨーク・フィルハーモニックの創立125周年を記念し、黛敏郎さんに曲を委嘱しようとしていたらしい。だが、僕の話を聞いて武満さんに決め、初演の指揮を僕に任せた。黛さんには悪いことをしたが、それで生まれたのが琵琶と尺八とオーケストラのための「ノヴェンバー・ステップス」だ。
 初演は翌67年11月。その前に尺八の横山勝也さん、琵琶の鶴田錦史さん、武満さんがカナダに来て、トロント交響楽団で徹底的に練習した。自分たちが初演するわけでもないのにトロント響のマネージャー、ウォルター・ハンバーガーは快くOKしてくれた。
 この曲は武満さんの傑作中の傑作だ。西洋と日本の音楽が一体になって、真の音楽を生み出している。ニューヨーク・フィルの練習では、聴き慣れない尺八の音に笑い出す楽員がいた。カーッと来て怒ったが、次第に全員が演奏に心を込めるようになった。横山さんと鶴田さんの真剣勝負に触れたからだと思う。
 初演の日。静かなオーケストラパートの後、二人のカデンツァが始まった。小刻みに震える尺八に、切っ先鋭い琵琶。ニューヨーク・フィルの連中が息を詰めて耳を澄ませている。指揮台の僕も興奮が収まらない。最後の尺八の音が消えた後、客席から「ブラボー!」の歓声がわいた。大成功だった。
 その1カ月後、今度はトロント響で「ノヴェンバー・ステップス」を録音した。メシアンの「トゥランガリラ交響曲」も一緒だ。メシアンたっての頼みだった。でも、長い難しい曲だから弾く方は大変だ。練習時間が長くなる分、報酬がかさむからオーケストラの経営にも負担がかかる。ハンバーガーがよく承知してくれたと思う。
 トロントではピアニストのグレン・グールドとも親しくなり、共演しようという話になった。放送局で演奏し、録音もする計画だ。何度も打ち合わせして、ちょっと変わった良いプログラムができあがった。現代曲や、バッハのチェンバロ曲をピアノで弾くのとか。なのに直前になってグレンが「嫌だ」と言って立ち消えに。そのくせ、変わらず平気な顔で僕と酒を飲んでいる。変わった男だった。
 69年4月、トロント響の日本公演で帰国した。東京文化会館での音楽会の後、楽屋に思いがけない人が来た。長く関係がぎくしゃくしていた斎藤秀雄先生だ。
 上野の食いもの屋に連れていってくれ、久しぶりにじっくり話せた。めったに人を褒めない先生に「お前も横に振れるようになってきたな」と言われたのを覚えている。指揮で横に振るというのは、ニュアンスを出すとか、あいまいな部分を表現することだ。極端な話、縦に振っていてもアンサンブルは合う。それ以上の音楽が作れるようになった、という意味だった。やっとわだかまりが解け、僕は芯からホッとした。
(指揮者)
| 小澤征爾先生 私の履歴書 日経新聞 | 09:57 | - | - |
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